「あの世」について
大昔のことです。大昔といってもかなりの大昔。
その頃の人達はみんな霊能者でした。
いわゆるオーラの泉の江原さんのようにみんなあの世が見えたんです。
つまり、当時はあの世とこの世の境、境界線はほとんどありませんでした。
だから当時の人達は普通に皆あの世と交信していました。
今、僕達が友達と会話しているように、
この世の人とあの世の人は「普通に」交流していました。
ですから、死んだ後あの世に行っても普通にこの世の人たちと話ができたんです。
だから、死ぬということは肉体という服を脱ぐという感じだったのではないでしょうか。
でも時が経つに連れて、一人また一人そのような能力をなくしていきました。
なぜかと言うとこの世での体験が強烈になりすぎたからです。この世が「面白すぎて」、あの世のことなど次第に忘れ去られていったわけです。
そして、とうとう、ほとんどの人が「あの世」のことが見えなくなった。
で、「あの世」のことがわかる人はほんの一握りになったんです。
そうなると状況が変わって来ます。
みんなが見えていたときは、言って見ればみんな「平等」ですよね。
そう、大昔はみんな「平等」だったんです。
みんなが平等というのはいわゆる「支配すること」も「支配されること」もない状態です。
つまり「支配」と「依存」の関係がなかった。
協力関係はあっても依存はありませんでした。
みんながあの世が見えていた頃は、あの世のことが見えると言っても
それは特殊な霊能力ではありません。みんなが持っている能力ですから。
でも、見える人がほとんどいなくなって、ほんの一握りの人にそのような能力が残ると
それは特殊な能力になります。
みんなが持たないものを持っている人、つまり特別な人になったわけです。
そして、特別な人である、その霊能力を持っている人にはちょっとした権力がうまれました。
つまり人を支配する権力です。
少し前までは、今でもあるのかな・・・、悩み事があるとそのような自称「霊能力がある」と言う人のところに行って、かくかくしかじかと相談すれば、
「あなたの背後には〇〇の霊がついてる、その霊を払わなければ災いとなり、あなただけでなく、子供にまで大変なことが起こるから、そうならないように御祓いをしてあげましょう。それにはまずこの壷を魔よけに自宅においておきなさい。」
で、その壷の金額が100万円だったりとか、おはらいにやはり何百万とかかったりとか
そんな感じで、やりたい放題やっていた霊能者がいて、だまされた人もいたらしいですね。
そのように見えない世界が見えるというだけで、人を支配できるわけです。中には全く見えないのに適当なことを言う霊能者がいて、人をたぶらかすこともあるようですが・・・。
いずれにしても普通の人には見えないものが見えると言うだけで、その人に妙な権威が生まれます。
霊能者=人格者では決っしてないのに、なぜか、霊能力があると、立派な人、人格者という考えがどこか私達人間にはあるんですね。
もちろん本当に霊能者で立派な人格を持っておられる方もおられます。
逆を言えば霊能者でなくても立派な人はいます。
ただ霊能者は立派な人だという観念は
やはり大昔、みんなが霊能力をなくしたとき、一握りの人間がその能力を維持した結果、霊能者が他の人々を支配した歴史があるからなのでしょう。
それが今も私達の遺伝子に刻まれているからではないでしょうか。
私達の多くは霊能力がある人はすごいと思ってしまうようです。またそういう力がある人の話はついつい引き込まれて信じてしまいます。
もちろん、その内容が「正しい」とか「間違っている」ということではなくて、
実際に霊能者の言葉にも実際に助けられたことがある人は沢山いるわけで、
誤解して欲しくないのは「霊能者がよくない」と言っているわけではありません
ただ、その能力を使って人を支配したり、それに依存してしまう、「支配」と「依存」の関係が出来上がってしまうのが、「果たしてそれでいいのかな?」と考えます。
で、この世に支配関係が生まれました。そしてそれにともなって階級が生まれました。
そのトップは霊能者である神官です。
神官は人々を支配しました。そして人々を支配することに快感をもつとその支配が一層加速します。
で、そこで神の話を持ち出して、神が怒っているとか、神が罰をあたえるとか、そういう話をして、人々怖がらせ人を支配していきました。人を支配する一番簡単な方法は恐怖を与えることです。
「先生に言うぞ」とか「親に言うぞ」とか言えば、昔は大体子供に言うことを聞かせることはできました。今は先生も怖くないし、親もたいしたことがないので効き目はないでしょうが・・・。
今は先進国に住む人を支配するのには神様を持ち出してもなかなか難しいかもですね・・・
その代わりになんでしょうか、経済でしょうか・・・・
大昔は神様を使って人々を支配しました。
神官はそうやって人々に恐怖を与えました。
そしてそれと同時に「この世」と「あの世」の観念もでき始めました。
つまり「この世」は神官が神の代理として支配し、「あの世」は神が支配する世界という観念がうまれました。
そうなると実際死んだ後もそのような世界が次から次へと出来上がります。
つまり、「あの世」も誰かが誰かを支配するという世界。
そのような霊界が出来上がっていきました。
「この世」はある意味作られた世界です。同時に「あの世」も作られた世界です。しかし、ものすごく巧妙に作られた世界ですから、それが本当の世界だと思ってしまいますね。
「この世」は以前は神官でしたが、今は経済活動において金融世界を支配している少数の人間が、残りの多くの人間を支配しています。
私達を支配している彼らはただお金を操っているだけではなく、あの世(霊界)の仕組みを見抜いている人たちでもあります。
「あの世」もこの世と同じようなところです。この世で人々を支配していて、なおかつ霊界の仕組み、つまり霊界も同様に作られた虚像の世界ということを知っている少数の人間が「あの世」を支配しています。
私達はこの世でも支配され、あの世でも支配されるとすれば、一体どうすれば私達は自由になれるのでしょうか。
それにはまずこの世に生きている間に、植えつけられた観念から「自由」になることでしょう。そうならない限り、死んだ後も霊界でも同じように支配され続けることになります。
この観念から自由になることはそうたやすいことではないでしょう。
なぜなら支配されているほうが楽なものだから、なかなその観念から抜け出せないでいるのが私たちなのでしょう。
多くの精神的指導者が自分の中にある「神性」に気づくよう言っていますが、それはなかなか大変なことです。それにはしっかりと自分の足で立たなければなりませんから。そう簡単なことではありません。
だからこそ
ルドルフ・シュタイナーなどはそのために教育が大切で、必要だと考えたのでしょう。
自分自身の中にある植えつけられた観念から自由になるのは並大抵なことではありません。
なぜなら多くの観念が私達の無意識のレベルにあるからです。
つまり、気づかないところにあるわけですから、そこから抜け出そうと思っても気づかないわけですから、難しいです。
しかし、難しいといっても日々の出来事、一瞬一瞬は私達の観念の結果なわけで、つねに私達はどのような観念をもっているかは日々その結果を体験しています。
つまり、毎日が、一瞬一瞬が、人との出会いが、無意識にある観念を知るチャンスでもあるというわけです。どういう観念が自分の中にあるかというのを知ることこそが、その気づきが、その認識が「自由」への一歩です。
このところはまた別の機会にもっと突っ込んで考えてみたいと思います。
いずれにしても私達はいろんな観念を植え付けられています。
そして
植えつけられた観念の最たるものが、「こうしなければならない」というようなドグマを持った宗教であるでしょう。
もし、この世に生きている間に、これが絶対だと信じきって、他を一切否定するような宗教観をもってしまうと、死んであの世に行ってからも大変なようで、何千年とその観念の世界(霊界)から抜け出せなくなってしまいます。
地球という「この世」は作られた虚像の世界、地球をとりまく霊界である「あの世」も作られた虚像の世界です。
しかし虚像だから意味がないということではありません。
この世という「虚像の世界」も地球をとりまく「作られた霊界」も、魂にとっては、とても魅力的な世界です。
それは魂がこの世に生まれて、人生というゲームにチャレンジすることで、魂の潜在能力が開花できる、そういう可能性がこの世にはあるのですから。
この世は魂にとってとても魅力的な世界なのです。
しかし、その魅力にとりつかれて、中毒にかかってしまい、作られた虚像の霊界に閉じ込められてしまっている多くの魂があります。
そして私達が生まれてくる理由は二つあって、
その一つは魂がその潜在能力を開花したいがため、
もう一つは、ある霊世界(観念の世界)に取り込まれてしまって、この世に生まれることも「本来の故郷」に帰ることができなくなってしまった、仲間の「魂」を救済するためでもあるのです。
この辺もまた別の機会に書きたいと思います。
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